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『新井奥邃著作集』書評記事

知られざる明治の思想家 新井奥邃

思想研究家・医師 瀬上 正仁

運命の糸に操られた生涯
奥邃(本名常之進・安静)は引化三年(一八四六年)に仙台藩主の家に生まれ、七歳から藩校「養賢堂」に学んだ。二十歳のころには藩から選ばれて江戸に遊学し、高名な儒学者、安井息軒(そくけん)の「三計塾」に入門する。
時は幕末。戊辰戦争の勃発(ぼっぱつ)で郷里に呼び戻された奥邃は「奥羽越列藩同盟」の結成のために奔走。藩が降伏すると、徹底抗戦を主張する額兵隊の兵士らと共に榎本武揚の軍艦に乗り込み、官軍との最終決戦に臨むべく、北海道の箱館(現在の函館)に渡った。
この地で、奥邃はロシア正教のニコライ神父(後の大司教)と出会い、キリスト教に大きな関心を寄せるが、旧幕府軍の苦戦が予測される中、募兵のため密(ひそ)かに帰仙することになる。しかし目的を果たせず、房州(房総半島)に潜伏するうちに箱館戦争に渡り、同郷の友人たち(彼らによって正教布教の第二の拠点が後のに仙台に創(つく)られることになる)を誘って、共に漢訳聖書の研究に没頭する。
そのままいけば、間違いなく日本正教会の重鎮となっていたはずの奥邃の運命は、東京で若き森有礼(ありのり)(後の初代文部大臣)と出会ったことで、また大きく変わることになる。
有礼から人物を見込まれ、共にアメリカに渡った二十五歳の奥邃は、有礼が最初の渡米以来心酔していた宗教家T・L・ハリスの教団に加わる。当時アメリカ西海岸にあったその教団は、神秘主義的なキリスト教信仰と農業共同体組織とによって運営され、奥邃は以後約三十年間、祖国の家族との連絡を絶って厳しい労働奉仕に従事し、肉体を酷使しながら独自のキリスト教信仰を深めていく。
奥邃が飄然(ひょうぜん)と帰国したのは明治三十二年(一八九九)、五十四歳の時。洋行帰りといえば身分が保証されていた当時にあって、奥邃は数少ない知人を頼りながら清貧の生活を貫き通した。明治三十七歳には、篤志家からの寄付で東京の巣鴨に建てられた私塾「謙和舎(けんわしゃ)」に移り住み、その後二十年間、数名の舎生と共に「キリストの志願奴隷」の道を究める敬虔(けいけん)な信仰生活を送った。
奥邃は毎月、舎生たちや舎外の求道者向けに「大和会(たいかかい)」という小集会を開き、二十四ページほどの小冊子を発行していた。関係者が保存してきたそれらの資料によれば、奥邃の思想とはおおよそ次のようなものである。
人間は内在する神イエスと共に自らの欲・怒・私我と戦い(=神戦(しんせん))、それを超克することによって神を覚知し(=有神無我(ゆうしんむが))、隣人に奉仕する魂を獲得して新たに生まれ変わる(=新生・復活)。したがって、日々そのような霊性向上の努力を重ねて人生を誠実に全うするのが人間本来の生き方であり、また日常の生活と信仰とが一体となっているのが宗教本来の姿なのである(=日用常行)。
さらに奥邃は「戦争は人類最大の罪悪」として、徹底した非戦論を展開した。全人類が共通の「父母神」(ちちははかみ)の存在に目覚め「無私共愛」に徹することで形成される「世界連邦」の構想さえもっていた。男女平等主義の熱心な唱道者でもあり、「良妻賢母と言うならば良夫賢父もあって当然」と主張した。さらには人間と自然、宗教と芸術とが一体となった「善と美」合一の生活の大切さを力説した。
奥邃の心は時代を超えていたのである。

夫れ(それ)万国の生民(しょうみん)は一族なり。
邦(くに)ととは邦みな姉妹たり。

宇宙統一の信念、宇宙統一の霊願、
人皆須■(しゅゆ)も失うべからず。

奥邃に学んだ人々も師と同様「市井(しせい)に隠れ」るようにして、黙々とその社会的使命を全うした。ダンテ『神曲』の翻訳家として知られる山川丙(へい)三郎、師の「謙和舎」にならって仙台に「昭和舎」という学寮(平成十二年の火災で焼失)を建てて医学生の指導にあたった布施現之助(元東北帝大医学部長)らがその中に含まれる。また詩人で彫刻家の高村光太郎、萩原碌山(ろくざん)、洋画家の柳敬助らも、その芸術的感性において奥邃の思想の影響を受けていたことが判っている。わが国初の公害事件である足尾銅山鉱毒事件を戦いぬいた田中正造の晩年の思想形成に決定的な影響を与えたのも、外ならぬ奥邃その人であった。

スウェーデンボルグ神学の伏流

ところで、奥邃が書き遺(のこ)した漢文調の文章は一見、儒教的な用語や表現で埋め尽くされている印象を受ける。しかしながらその宗教思想の根幹に存在するのはあくまでも霊性を重んじるキリスト教であり、それも既成のキリスト教ではなく、多分にハリスから受け継いだスウェーデンボルグ神学に依拠したものである。奥邃の「神戦」の「有神無我」、「新生」、「日用常行」、「普遍的宗教」と同じ思想はスウェーデンボルグ神学にも確認でき、「三位一体」、「原罪」、「贖(しょく)罪」の解釈もきわめてスウェーデンボルグ的だからである。
そもそもエマヌエル・スウェーデンボルグ(一六八八~一七七二)は、北欧スウェーデンが生んだ神秘主義的キリスト教神学者である。その特異な霊界体験に基づく独特の宗教思想はかつてオカルト主義や異端思想とみなされるなど、多くの誤解を受けてきた。だがその真髄は、従来のキリスト教を超えた人類の普遍的宗教を希求したことにあり、その中心となる「愛」の思想はヘレン・ケラー、あるいはアメリカの南北統一と奴隷解放を成し遂げたリンカーンにも宗教的感化を与えた。十九世紀アメリカに広く浸透したこの神学の影響は前述したハリスのみならず、社会思想家のエマーソンにも確認できる。
晩年の田中正造に影響を与えた第二の人物として知られる岡田虎二郎も、渡米中にエマーソンの著書を通じてスウェーデンボルグを知り、自らが提唱した「静座法」の究極の目標に「大愛」を置いた。奥邃はアメリカに導いた森有礼も、同じ思想に基づいて明治期日本の教育制度の確立を目指した。奥邃のすぐ後の時期に十三年間の渡米生活を経験した禅仏教の鈴木大拙も、同神学に精通していた。
すなわち、最近の奥邃研究が契機となって、アメリカから伝わったスウェーデンボルグ神学受容の隠れた歴史の全容が明らかにされつつあると言っても過言ではない(拙著『明治のスウェーデンボルグ』春風社刊)。

迷える現代に光明を与える思想

二十一世紀を迎えた今も、世界には偏狭な民族主義や原理主義(根本主義)的宗教がはびこり、その些細(ささい)な違いに起因する戦争が絶えない。日本に目を向ければ、青少年の犯罪や政治家の腐敗も目を覆うばかりである。
まさにこの困難な時代において、東西の融合を自らの思想で体現し、徹底した非戦論と男女平等を唱え、青少年の精神修養の大切さを説き、上に立つ者の無私無欲と奉仕の精神について語った奥邃の言葉は、新しい世紀を導く道標となるにちがいないと筆者は考えている。一八九九年に帰国した奥邃はあたかも、百年後の世紀末である一九九九年の世界と日本の混迷を見通していたかのようである。
孤高の人生を生きた新井奥邃は、大正十一年(一九二二)に「謙和舎」で病没した。その八年前に起きた第一次世界大戦で大量殺りくが行われたことを知った奥邃は、キリスト者として自らにもその責任の一端があると思い詰め、寿命を縮めたといわれている。享年七十七歳、生涯独身であった。
世田谷区の森厳寺に葬られた奥邃の塚にはしばらくの間、「奥邃の土」と墨書された一本の木杭(くい)だけが立っていたという。

大徳は跡なし。跡なきに非ず。
其(その)行くや静かにして凡人の眼に隠る。

郷土が生んだこの偉大な思想家の遺稿は現在、春風社から『新井奥邃著作集』(全十巻)として刊行中である。一読を勧めたい。
いきいきライフ宮城 (2002年7月15日号)より

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河北春秋(河北新報2001年12月27日)より

非戦、という言葉がある。似た言葉に反戦があるが、少し距離を置いた感じがする。人道主義的立場からの戦争否定が非戦。体制変革的な反戦に比べ消極的に見えるが、風にそよがぬしんの強さがうかがえる。
日露戦争当時、内村鑑三らとともに非戦論を唱えた一人に仙台出身のキリスト教徒新井奥邃がいる。聖書を実践する生活で高村光太郎らに影響を与えたが、人は皆兄弟姉妹、万国は一族だとの見方に立ち、国家の戦争を否定した。
今に残る新井の言葉をかみしめてみるのも無駄ではあるまい。「率然として衆に雷同すべからざる也、夫の肉殺血伐、即ち人を殺すの業の如きは高天の下、広地の上、永へに当に全廃すべき也」。大胆な非戦論。
その「非戦」という言葉に久しぶりで出合った。音楽家坂本龍一さんらが出した同名の本(幻冬舎刊)。ニューヨーク在住の坂本さんが知人らとインターネットのメールで交わしたやりとりを発展させ、米中枢同時テロや米国の戦争行為に反対する意見をまとめている。
テロリストの味方か敵か。そんな極端な選択以外の道はないか、戦わずに考えようというのが坂本さんらの考えだ。今や関心はビンラディン氏捕そくに集まっているが、それで暴力の連鎖を断ち切れるのか。答えはまだ出されていない。
今年の世相を表す漢字は「戦」だった。日本周辺でも不審船との銃撃戦が先日起きた。強硬姿勢に傾きがちだが、好戦的空気が道を誤らせぬよう冷静さが必要だ。国民が「戦く」事態は誰も望まない。 

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精気を揺さぶる思想家

――田中正造と共振した新井奥邃

詩的感性の祈りと思索の人・新井奥邃

田中正造の天皇直訴から数え、この10日が百年目にあたる。渡良瀬川沿岸農民の鉱毒被害救済のために足尾銅山操業停止を訴えつづけ、政府、議会、政党に絶望していた正造に、日本はもはや「亡国」と映っていた。立憲君主主義者として胸中に複雑な思いを秘めつつ、本気で殺される覚悟で彼は天皇の馬車に迫った。
直訴は大きな反響をよび、被害民への同情の世論が沸騰した。しかし、政府は鉱毒問題を治水問題にすりかえる策で対応。後の谷中村遊水地化は直訴が誘発したといえる。正造の新たな戦いと思想的深化がここに始まった。
その正造に深い理解と関心を寄せ、陰で支えた人物がいる。新井奥邃である。
二人の初対面は直訴の数ヶ月前、紹介したのは明治女学校の校長巌本善治と思われる。1902年1月、奥邃は雑誌『日本人』に「過(あやまち)を見て其仁(そのひと)を知る」を発表、正造の行動と心事を擁護する。正造は、翌年からしばしば奥邃を訪問。論語をはじめ、余人にはしなかった聖書の話を聞いたという。彼にとって奥邃の家は「天国」そのもの、困憊した心身を潤すオアシスだった。奥邃は、正造の陳情書にも筆を加え、谷中村不当買収価格訴訟が頓挫しかけた時、門下の中村秋三郎弁護士を紹介した。正造は奥邃を「斯道の亜聖」と仰ぎ、奥邃は正造の「嬰児の信」を称え、正造との親密さを「兄弟(けいてい)啻(ただ)ならず」と述懐している。
奥邃は1846年仙台に生まれ、7歳で藩校・養賢堂(ようけんどう)に入学、弱冠21歳で江戸遊学を命じられ安井息軒塾に学ぶ。1868年の春、帰仙して列藩同盟のために奔走するが、秋には脱藩、函館に遁れる。募兵のため仙台に戻ろうとするが意を果たせず、再度函館に渡り、ロシア正教のニコライ司祭の留守中、仲間とともにキリスト教の勉強に専念。1871年1月、特命弁務使の森有礼に随行して渡米。かつて森が師事したT・L・ハリスの創設になる、祈りと呼吸法と労働中心の共同体「新生同胞教団」に入り、そこで28年の年月を過ごす。
1899年、奥邃は手提げ鞄一つで飄然と帰国した。4年あまりの流寓の後、東京巣鴨に「謙和舎(けんわしゃ)」を開設、1922年に死去するまで、ひっそりと青年の教育と執筆活動をつづけた。生涯独身を貫いた彼は、高潔な詩人的感性の祈りと思索の人で、静謐を守り、名利を求めず、泥棒にまで同情される質素な生活に徹した。自分の写真を一切撮らせず、墓を建てることさえ許さなかった。
奥邃の思想は、儒教的天下安民思想と慎独(ひとりの時も道に従って心と行いをつつしむ)説に加え、ハリスの教えやハリスの許で摂取したスウェーデンボルグの教説が渾然一体となった「儒基一如(じゅきいちにょ)」の思想といえる。その独特なキリスト教把握には次のような特色が挙げられる。

1.宇宙万物の生命の源泉である神の全一性を「二而一、一而二(ににしていつ、いつにしてに)なる父母神(ちちははかみ)」とする両性兼備の神観。
2.神の救済は万民に及び、最終的には地獄と悪魔も救われるとする救済観。
3.慾と怒と我をなくす「神戦」に加わり、キリストの志願奴隷としてひたすら神と人に仕え、神の懐(ふところ)に抱かれる「有神無我」の強調。快楽と謙虚な勇気に満ちるその境地での人格の再生と「公我」の享受。
4.聖書は研究の対象でも、人前で講釈するものでもなく、実践の「備忘録」とする聖書観。
5.高尚に過ぎず、日常卑近なことを実行することこそが神の道、人間の新生への道だとする「日用常行」の要諦。
6.こうした認識から、軍拡と安易な同盟に反対する戦争全廃論、男女平等・社会平等論、土地兼併を罪悪とみる土地享有(きょうゆう)の主張、死刑反対、非所有の喜びなど、晩年の正造と共振する社会思想が紡ぎだされる。奥邃はまた、男性への依頼心が来たす良心の蚕食をなくすべく、女子教育の重要性を強調する。

奥邃の漢文調の言葉は雄勁な精神性を湛え、読む者の精気を揺さぶる。また、第一次大戦中の次の文のように、今の世界情勢を穿つ力を持っている。刊行中の『新井奥邃著作集』を(春風社)ぜひ味読して頂きたい。
「嗚呼、殺也。殺也。殺也。今の文明は殺也。美を殺し、善を殺し、人を殺し、其肉を殺し、霊を殺し、基督耶蘇を殺す。此れにして人間ならば、人間は人に非ざる也。五洲今皆危嶮にして苦痛。この人間を以て、仮令一二邦国の共同して己の安全を図らんと欲するも、万々能くすべからざるは自明也」
コール・ダニエル
福岡女学院大学助教授・本著作集編者
東京新聞(東京新聞2001年12月19日夕刊)より 

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■東京新聞(東京新聞2001年12月4日夕刊)より大波小波

12月10日午前11時45分、帝国議会の開院式に臨んだ天皇の馬車に、直訴状を手にした田中正造が駆け寄った。あえなく警護の警官に取り押さえられるが、この直訴が世論に火をつけ、足尾鉱毒事件は明治の二大社会事件となる。明治34年、20世紀最初の年の出来事だ。 直訴から百年の今年、田中正造とその周辺の人物の思想を再発掘する作業が進んでいる。春風社の『新井奥邃著作集』(全十巻)の刊行もその一つだ。 仙台藩士の子に生まれ、戊辰戦争後25歳で渡米、54歳で帰国したキリスト者奥邃は、正造に大きな思想的影響を与えただけでなく、谷中の土地補償金額不服訴訟の弁護士の紹介もしている。 現在では、ほとんど知名度のない「知られざる思想家」奥邃。その著作集刊行は、冬の時代といわれる出版界では商売を超越した壮挙といっていい。「やがて来る再評価のために、原資料を残しておこう」という関係者の高い志がこの刊行を支えている。 日露戦争に反対した筋金入りの反戦思想、女権の主張、現代のエコロジーやガイアの思想にも通じる自然観など、豊かなふくらみを持つ奥邃。著作集全10巻の編纂者の一人が、オハイオ州生まれの気鋭の日本研究者、コール・ダニエル福岡女学院大学助教授だというのも、こころ温まる光景だ。(直訴派) 

 

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■函館新聞

函館文化会120周年

(函館新聞朝刊2001年8月5日)より社団法人函館文化会の創立120周年記念講演絵画4日、遺愛女子高講堂で開かれ、「宣教師ニコライにつながるひとびとその2」と題して佐藤在寛、和田喜八郎らに大きな影響を与えた新井奥邃とニコライ、函館とのかかわりについて、3人の講師がそれぞれの立場から語った。
同会は1881(明治14)年に教育理論や学校管理の方法、教育の技術的研究などを目的に発足した「函館教育協会」が前身。戦中戦後の混乱期を経て、1958(昭和33)年に現在の名称となった。郷土史研究者奨励事業の「神山茂賞」の制定や講演会などを通じて、地域文化を支えている。
講演会には約100人が参加。安島進理事の司会で、新井奥邃先生記念会幹事(山形県在住)の工藤正三氏が「函館と新井奥邃」、文筆家の花崎皋平氏(小樽市在住)が「新井奥邃の思想――21世紀に響きあうもの」、福岡女学院大学助教授のコール・ダニエル氏(福岡市在住)が「奥邃から学ぶもの――教育と親子関係」と題してそれぞれ講演した。
このうち工藤氏は「函館在住はわずか数カ月と短期だったが、ニコライとの出会いにより自分の将来を考え、函館に戻りハリストス教を学ぶことになった」と、年表などを使って分かりやすく解説した。

 

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■現代企画室

(現代企画室刊、2001年3月)より抜粋小松裕『田中正造の近代』いささか結論を先走りすぎたようであるが、ここで新井奥邃と田中正造の関係を考察してみたい。

内村に比べ、ほとんど知られることがなかった新井奥邃は、新井の信奉者であった工藤直太郎や、森信三・林竹二などの先駆的業績、長野誠一『怒涛と深遠 ― 田中正造・新井奥邃頌』(法律文化社、1981年)などにより、信仰者としての独自性と正造に与えた思想的影響の大きさが着目されるようになってきた。(中略)また、『知られざるいのちの思想家 新井奥邃を読みとく』(春風社、2000年1月)と題する論文集が上梓され、『新井奥邃著作集』(春風社、全10巻の予定)の刊行もはじまった。新井の思想に対する関心の高まりを象徴していよう。

小松裕 (こまつ・ひろし)
熊本大学文学部教授。おもな著書に『田中正造 二一世紀への思想人」(筑摩書房)など。

 

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■産経新聞

2001年3月28日夕刊 — 『明治のスウェーデンボルグ』一九世紀半ばの日本とアメリカ。日本は明治維新前夜、アメリカではリンカーンが大統領への道を歩み出した頃である。当時のアメリカの宗教界でスウェーデンボルグが注目された。没後まだ半世紀も経ずして、彼の説く新しいキリスト教は特に新大陸で広く浸透しつつあった。アメリカの現大統領の曾祖父の曾祖父にあたるティモシー・ブッシュの弟、ジョージ・ブッシュ博士(一七九六-一八五九)は、ニューヨーク大学のヘブライ語教授だったが、スウェーデンボルグ派の著名な教会員でもあった。彼はアメリカのスピリチュアリズム(心霊主義)興隆の仕掛人でもある。スピリチュアリズムの父と称されるA・ジャクソン・デーヴィスを世に出したのは彼だからである。

デーヴィスの教えに感化され、スウェーデンボルグ主義を標榜して、労働と冥想を重んずる「新生同朋団」を結成したのが、トーマス・レイク・ハリスである。

若き森有礼(ありのり)と新井奥邃(おうすい)が入団したのはこの教団にほかならない。有礼は帰国した後に初代文相となった。奥邃は三十年近く同教団に残った。帰国したのは五十三歳。その後私塾を開き、高村光太郎をはじめ多くの人びとを感化した。田中正造も奥邃と親交があり、彼を亜聖と呼んでいる。

明治のキリスト教史で、この有礼-奥邃-正造の系譜は従来等閑に付されてきた。本書はこの特殊な流れを貫く本質を、資料の綿密な分析と総合によって検証した画期的な労作である。

折りしも奥邃著作集が刊行中だが、本書はこの成果も踏まえ、また著者の長年のスウェーデンボルグ研究に基づいて、新しい型のキリスト教受容が何故日本キリスト教史で見落とされたのかという謎を克明に解いている。

※新井奥邃(おうすい)の著作や講話録は昭和5年から6年に弟子の永島忠重によって『奥邃広録』(全5巻)として出版された。平成3年にはこの復刻版がでたが、これも今は絶版になっている。今般、春風社から新たに『新井奥邃著作集』(全10巻)の刊行が開始された。

高橋和夫 (たかはし・かずお)
文化女子大学教授。哲学・宗教学専攻。昭和21年生まれ。学習院大学大学院博士課程修了。おもな著書に『スウェーデンボルグの思想』『スウェーデンボルグの宗教世界』など。

 

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■e-mail版 三月書房販売速報

38号—『新井奥邃著作集』これも超渋い。実のところどういう人なのかさっぱり知らないのだが、「おうすい」という名前が読めるだけでも、ちょっと自慢してもよいだろう。この出版社は初耳だが、たぶん1組売れそうなので無事完結を祈るのみ。

 

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■産経新聞

2000年8月2日夕刊 — 「宗教こころ」より抜粋今般の著作集は、奥邃先生記念会幹事の工藤正三氏と、福岡女学院大学助教授のダニエル・コール氏によって編集されたもので、奥邃の著作の「元版」を底本として、原稿をも参照したものである。テキストクリティークを施した決定版と言ってよい。『奥邃広録』には編集上のいくつかの不備があったので、これによって初めて、一般には幻の思想家と見られて来た奥邃の思想が鮮やかに現代の読書界に蘇った。

 

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●知られざる思想家

後に初代文相となった森有礼(ありのり)は、明治4年(1871)初頭、特命弁務士として渡米する際、戊辰戦争で奔走した仙台藩士、若き奥邃と知り合い、彼をアメリカに同行した。それはかつて薩摩藩の留学生だったとき、森ら数名が米国で共同生活をした「新生同胞教団」でキリスト教を学んでもらうためであった。トマス・L・ハリスが率いるこの教団は修養的な労働と瞑想を重んじた。奥邃は25歳から54歳までの約30年間、そこに留まった。

明治32年(1899)に彼は突如、無一物同然で帰国し、4年余りの流寓の後、大正11年(1922)に77歳で死去するまで、東京巣鴨に私塾「謙和舎」を開いて青年の教育と著述活動を続けた。彼は高潔な詩人的素質をもつ思想家であり、高村光太郎、田中正造をはじめ多くの人びとを感化した。自分の写真をとらせず、墓をつくることさえ許さなかったという。

 

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●独特な「父母神」思想

明治期以降、日本で受容されたキリスト教は、プロテスタント諸派のそれが主流であり、教理も似かよっている。奥邃のキリスト教思想はこれらと一線を画し独特である。著作は研究書のような体裁はとらず、文体も深い瞑想と祈りの中から流露する一種の硬質な思想詩を思わせる。若い頃、儒学に打ち込んだ彼の思想は、儒教的教養の基層の上に、アメリカで身に付けたキリスト教や諸他の学問が加わり、これらが渾然一体となったものである。古い漢文調の文体が思想をいっそう奥深いものにしている。

奥邃の説く神は「父母神」である。父母という二つの神的実体があるのではなく、「二而一(にじいち)」という彼独自の概念によって、二つは一体であり、従って唯一の「父母神」が存在する。この父母神は愛であり、宇宙の万物の生命の源泉である。神と人類は親子関係である。

この両性具有の唯一神思想は彼の独創ではなく、師のハリスやスウェーデンボルグの神観にも見られる。しかし日本のキリスト教思想に初めて現れた神観であることの意義は大きい。近年、ジェンダーが言われ、神観についてさえ議論がなされる。男女平等ばかりか、母性の喪失や父性の復権といった言葉がよく聞かれる。父母神の思想が現代に問いかけるものを考える必要があろう。

奥邃によれば、人間は一生涯、自らの「欲・怒・我(が)を殺滅する神戦」に参加しなければならない。この戦いのためには「有神無我」が要求される。これは「私我」を捨てる努力をするとき超越的な父母神の力が働いて成長が促進されることを意味する。成長は救済でもあるが、救済は自力と他力という2つの力が「二而一」つまり一体となって遂行される。

奥邃は当時の教育について

「教育は神戦の学習也(なり)。善く之(これ)に戦ふ者は必ず青年たり。蓋(けだ)し青年に非(あら)ざれば善く戦ふ能(あた)はず。然りと雖(いえど)、今の年少なる者は往々老朽の精神にして、自ら起(た)って以て神活の道に於て我欲と戦ふ能はず、怪しむべし」

と嘆き、青少年がこうなった原因を教師や親の誤った態度に求めて

「凡(すべ)て人の子を以て試験動物の如く見做して自家―私智―造作の制度中に畜育すべからざる也」

「その子を愛すと雖必ず之を他人の子と共に平等に公視すべき也」

と戒めている。これは現代の荒廃した教育にも通じる警告である。著作集が広く読まれ、奥邃の思想が多角的に研究されるなら、現代の閉塞的状況が少しでも打破されるであろう。

高橋和夫 (たかはし・かずお)
文化女子大学教授。哲学・宗教学専攻。昭和21年生まれ。学習院大学大学院博士課程修了。おもな著書に『スウェーデンボルグの思想』『スウェーデンボルグの宗教世界』など。

 

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致知

2000年3月号『知られ知られざるいのちの思想家 新井奥邃を読みとく』■致知(2000年3月号)森信三氏が晩年、自分の師としてただ一人挙げた新井奥邃。本書は、近代日本における希有の宗教家・思想家である彼の思想のエッセンスをわかりやすく解説した。

新井奥邃の生まれは一八四六年。明治時代にアメリカで三十年過ごし、帰国後は東京の巣鴨でひっそりと若い学生たちとともに暮らした。人格形成に腐心した教育者であり、戦争・差別・自己欺瞞を糾弾した祈りの人でもあった。写真も肖像画も残さず、知る人ぞ知る存在だったが、その思想は田中正造や高村光太郎をはじめ、明治・大正の芸術家、思想家、社会運動家たちの根底に、地下水の如く流れていたという。

複雑で難しい問題が山積する現代、奥邃の人と思想に学び、新しい世紀を切り開くヒントをつかみたいものである。

新井奥邃著作集
Arai Ohsui

田中正造が師と仰ぎ、高村光太郎が絶賛し、野上弥生子が「霊感」の人と呼んだ新井奥邃とはいかなる人物だったのか。
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